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2017-01-16

「本」から学ぶ、私と社会のつながり方〜静岡大学 小二田誠二先生

本は、私たちの思考、言葉、行動様式をつくる《インフラ》になる。

【取材/度會由貴(静岡大学)|取材・文/三好景子(静岡大学)】

小二田 誠二先生

静岡大学人文社会科学部言語文科学科教授。専門は日本文化。
実録と呼ばれる分野で、江戸時代の情報伝達を材料に、「四谷怪談」などの怪談や敵討事件の事実と虚構について研究。春には山菜採取に出かける。先生の研究室に入ると、製本の技術が身につく。

静岡でつくられた本が、日本人の思想の基礎となった

ーー私は「本」=自分をつくる「インフラ」だと考えています。そもそも本ってどんなものなのでしょうか?

買ったけど読んでない本や通読した本で、自分の生涯のリストをつくったら、きっと自分を理解するにはすごい資料になりますよね。そういう意味では、本がその人を形成していると言えると思います。  

それに、もともと静岡県は本とつながりのある土地です。日本の鋳造金属活字の発祥地なんです。「駿河版銅活字」といって、徳川家康の命によりつくられました。浜松に漂着した中国人が技術責任者となり、貨幣の鋳造と同じような方法で活字をつくったと言われています。当時、家康が駿河版銅活字で印刷したのは、国を治めるうえでの考えや工夫が書かれた本でした。江戸時代は大きな侵略も内戦もない泰平の世でしたよね。文治主義の背景にはこの駿河版があったわけです。
ただ印刷に関する技術はすぐに江戸へ普及したため、その後それほど静岡県の出版に影響を与えていません。地方の寺子屋の教科書なども江戸でつく私たちは「本」で獲得した言です。

 しかし、静岡県でつくられた本のなかには、日本人の思想の礎になったと言えるものがあります。明治につくられた『西国立志編』と『自由之理』です。欧米の成功事例や政治学に関する書籍を、中村正直が発行とほぼ同時期に翻訳しました。静岡県でいち早く出版されたんですよ。

ーー個人だけでなく、社会や日本人をつくるうえで、本は昔から価値あるものとして扱われてきたんですね。

一方で、一冊の本の価値って誰かが決められるものではないですよね。少し話は変わるけど、先日古書市の企画で八〇年代のバンド「ジャーニー」の記録映画のチラシを売ろうとしたんだけど、誰も買わないんですよ。だから「誰もいらないみたいだし、破りますね」ってその場で私が破ったら、そこにいた人はみんな動揺してしまったの。さっき自分にとって価値がない(買わない)と判断したものだけど、年月が経っているということだけで何かものに価値を見出すんだよね。本の価値なんて誰にも分からない。

だけど、本の価値を社会が決めてしまって、検閲される本も過去には多くありました。今、私たちは本を自由に選べる社会だと思います。でもそういう社会は、伝説的なライブラリアンによってつくられたものなんです。そういう人たちが静岡にもいました。

1996年に静岡市立中央図書館が収蔵していた『タイ売春読本』を廃棄するよう市内の市民団体から要求がだされたことがあります。そのとき「静岡市の図書館をよくする会」の佐久間さんという方が異議申し立てをしたんです。そういう本の存在を社会から隠してしまうことの方が犯罪だ、と。今、ヘイト本を書店に陳列するかどうかも問題になっているけど、陳列しているからこそ私たちは判断できる。でなければ私たちは判断力を失ってしまいます

メディアはメッセージ。『本』という媒体自体に意味がある。

ーー社会的に本の内容が取捨選択されることがあるのですね。今は本を自由に選べる時代とのことですが、小二田先生は本から自分の思考法が形成されたといった体験はありますか?

人生においてすごく影響を受けた本はあります。
私が研究者を目指したきっかけは、学生時代に読んだ松田修さんの『複眼の視座̶日本近世史の虚と実』という本です。江戸文学の研究者が歴史上の事実の根本的な疑問を、認識の問題として論じています。語り継がれている説はあくまでそれを伝えている人たちの認識であって、どれが本当の事実なのかは分かりま せん。例えば、キリストやナポレオンはいなかった説なんて聞いたことがなかったので、衝撃を受けましたね。歴史学からも文学からも取り残されているジャンルがあるということを知って、それが今の研究にもつながっています。

また最近は、本の探し方も変化していますよね。ネットで本を買うと「あなたへオススメ」って出てくるけど、誰かが関連付けた本って自分にとってはあまり意味をなさない。私は図書館にいくと、目当ての本の周辺の本と背後の棚の本を見るようにしています。本を探すという経験をすることで自分だけの関連付けができ、新しい発想に繋がることがあります。

ーー本棚から自分の思考をつくることにつながるって、面白いですね。

この発想は「本という媒体」であることが重要です。ただ一方で、本は「本 という媒体」じゃなきゃだめなのかと疑問にも思います。影響を受けている本ならなおさら、本が「本という媒体」であることはあまり意味をなさないんじゃないかな。夏目漱石の『こゝろ』 を初出の朝日新聞で読んでも、青空文庫で読んでも伝わるメッセージは同じはずなんですよね

ーーでも、得られる情報は一緒だとしても、書店に行きたくなるし、お気に入りの本は手元に持っておきたい。本が本である魅力って何なんでしょう?

『メディア論』で有名な、文明批評家のマーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と言っています。凄く不思議な言葉ですよね。メッセージを伝えるものがメディ ア (媒体)なのに、その媒体自体にもメッセージがあるだなんて。どういうことかというと、高級料亭の食べ物を、学食のお皿によそった途端にまずくなるようなものなんです。

メッセージは食べ物で、メディアは器。器が違うだけで別物に感じるんですよね。媒体によって意味が違うというのは、人間だから当然あること。本の内容を知っていることと、本を持っていることは全然違う。だから、 我々は一点ものの本が欲しくなったり、高いお金を払ってでも本を持っていたくなるものなんですよ。

ーーこれから本はどうなっていくのでしょうか?

情報にはフローとストックがあります。実用書など更新頻度が高く、常に流れていくものがフロー。生産や創造において有用性をもつもの、つまり資本となるのがストックです。フロー情報は特段、後に残す必要がありませんから電子化されていくでしょう。一方、 ストック情報は、本という媒体でこれからも享受されていくと思います。そういう意味でも本は人や社会をつくるインフラと言えるのかもしれません。
ストック情報には芸術や文学など文化資本も含まれます。私も日本文化の研究者として、縁あって自分の手元に来た本は、次の世代に絶やさず残していかなければと思っています。今まで本という媒体に馴染んできたのに、 我々の代でなくなってしまうのは悲しいですからね[了]

この記事は静岡時代38号「静岡時代の本論」に掲載されています。
「わたし」を変えうる本とはなにか。静岡県と本との関わりとは? 自分を見つめ直すヒントが散りばめられた、人生読本です。
県内のすべての大学・一部の高校にて配布・設置しています。


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