基礎の日本語教育を終えた君へ「基礎だけじゃ分からん世界があるのだ」
小学校から高校まで国語とは誰しも長い付き合い。国語という科目を通して大学での学びを教えてください、先生!
谷口先生 私が日本語教育の道に進もうと思ったのは、四年間の高校教員時代の、ある出来事がきっかけでした。中学生の頃に読んだ三島由紀夫の作品から、言葉の美しさ、日本文学の面白さに強く惹かれた私は、大学では文学部に進学して、母校の国語教員になりました。
ところが、当時、母校は帰国子女を多く受け入れる学校だったので、私は彼らに「国語」だけではなく、「日本語」の指導も行うことになってしまったんです。でも、その頃の私は、国語の教え方は分かっても、発音や文法など、日本語の教え方については、まったく分かりませんでした。それで、日本人なのに、なぜ自分の国の言葉が教えられないのか、疑問を抱くようになったんです。
ちょうどその頃、政府も留学生の受け入れを拡大して、大学にも専門的に日本語教育が学べる学部ができたんです。そこで、思い切って高校の教員をやめて大学院に進学して、日本語教育を一から勉強することにしました。
——国語教員の経験を経て、「日本語教育」に出会われたのですね。先生が、この学問を通して得たことはありますか
谷口先生 日本語というのはどういう特徴をもつ言語なのか、客観的に見つめる姿勢が身につきましたね。国語の教員だったのですから、もともと日本語が好きだったわけですが、その大好きな日本語について、日本語教師として、更にああでもない、こうでもないと、いろいろ考えるようになりました。そして、それはとても楽しいことです。
例えば、この前東京へ出張に行ったときに、ホームの売店でこんな場面を見かけました。タバコを買ってお釣りを受け取らずに立ち去ろうとした人がいたんですが、売店のおばさんがそれに気づいて、大きな声で「タバコの人! 」と言ったんです。よく考えると、これは不思議な言い方で、「タバコ」と「人」という二つの名詞を「の」という助詞でつないだだけなんですよね。主語も動詞もありません。もし英語だったら、こんな言い方はできませんよね。何て言うんでしょう? でも、そのお客さんにはおばさんの言いたいことがちゃんと伝わって、お釣りを取りに戻って来ました。
私は、このような日本語の面白さについて、二四時間考える仕事に就けたこと、それを職業とする幸せな状況が得られたことが、「日本語教育」を専攻して一番良かったことだと思っています。
——確かに日本語について深く考えてみると、面白い部分がたくさん隠されていることに気が付きました。しかし、ふと「本当に母語である日本語を私たちは勉強する必要があるのか」と考えることもあると思うのですが……
谷口先生 外国の大学の学生と比べると、日本の大学生は母語を勉強するという意識が低いように思えます。
私は今、「ライティングセンター」の研究をしています。「ライティングセンター」というのは、専門の指導員が学生のレポートや論文などの書き方を個別に指導する支援機関なんですが、これは、ほぼすべてのアメリカの大学に設置されています。でも、日本にはまだほとんどありません。それで、設置が進んでいない理由など、その背景を調べています。その際に、アメリカの大学の先生に、どうしてアメリカではこのような機関を設置しているのかと聞いたら、逆に日本にはなぜ無いのか、と聞き返されたことがありました。
母語でも、何千字ものレポートを書き上げるのはとても難しいことなんです。本人が能動的にレポートを書いて、学んだこと、考えたことを文章にしてまとめてはじめて、本当の学びになると考えているアメリカの大学では、その基礎となるライティング教育を徹底的に行っています。でも、日本の大学にはこのような機関があまりありませんよね。母語、つまり、日本語の運用能力を向上させることの重要性を理解している人が、少ないということなんでしょうね。
日本語に限らず、なぜ勉強するのかと聞かれれば、レントゲン写真を例に考えると、納得してもらえるんじゃないかと思います。胸のレントゲン写真を見たとき、白い斑点が写っていたとして、知識のない素人が見ただけでは、それが何だか分かりませんよね。でも、専門家が見れば、瞬時にヤバイ! と分かります。同じものを見ていても、実は自分には見えていないものがいっぱいあるはずなんです。それで、その自分に見えていないものを見るために、人は勉強するのだと思います。それで、日本では大学の勉強も、基本的に日本語で行うわけですから、その手段である日本語の能力を高めることは、とても大事なことなんじゃないでしょうか。
——全ての基礎が日本語であるというのは納得です。高校と大学と両方で教鞭をとられた先生ですが、国語という科目を通して、高校と大学では「学ぶ」ということになにか違いはあるのでしょうか
谷口先生 高校までの「国語」は、古文・漢文・現代文があって、作品の読解を通して、当時の日本人の生活や人々の価値観に触れているわけです。文法や句法なども勉強してはいますが、主に各時代の人々の感情や考え方を学んでいます。日本語の運用能力の向上を目指すと言うよりは、日本語や中国語で作られた文化遺産を勉強しているのだ、と言えるんじゃないでしょうか。
反して、大学の学びには高校のような「国語」という教科はありません。大学では、言葉としての国語、つまり、日本語の力を磨くんだと思います。大学では専門が分かれますが、どの分野でも思考の核になるのは、やはり日本語です。自分の頭の中にまだ足りない日本語を補って、その運用能力を高める、それが大学での「国語」の学びかな、と思います。
そのためには、ありきたりですが、大学では多くの本を読んでほしいですね。読書を通じて、まず頭の中の自らの日本語を豊かにして、それによってさまざまな世界を知ってほしいと思います。大学では、自由に時間を使うことができます。ですから、受験勉強で読めなかった本をたくさん読んで、自分の「好きなこと」を見つけて、それを究める時間として四年間を過ごしてほしいと思います。
谷口正昭先生
静岡産業大学情報学部教授、日本語リテラシー研究センターセンター長。専門は日本語教育学。留学生の日本語教育やビジネス応用日本語などの授業を受け持つ。現在、主に日本におけるライティングセンターの設置動向について研究している。
文・古田萌黄(静岡大学地域創造学環地域経営コース2年)/ 調整・峰松美祈(静岡大学農学部生物資源科学科3年)