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2019-04-12

「大学で学ぶって高校までと何が違うの?・2」飯野勝己先生(静岡県立大学国際関係学部准教授)に訊いてみた

哲学って、まさに大学ならではの学問って感じ。はじめて触れる、分からないことだらけの学問は、どうすれば本質に踏み込めるのだろう。大学から始まる、より面白い学びの世界を探っていこう。

飯野先生 私が哲学に触れたきっかけは、中学生の頃家で見つけたニーチェの本でした。当時、私はいわゆる「中二病」的な気分でいて、中学生らしくありなさいとか、他人からあれこれ押し付けられる価値観に窮屈さを感じていました。そんな気分にしっくりきたのが、キリスト教や従来の社会規範の権威に反抗したニーチェの本『ツァラトゥストラ』だったんです。哲学は比較的自由度が高い学問で、しきたりとか決まったやり方というものがそれほど明確でないところがあります。他人の書いたものをあれこれ学びつつも、最終的には「自分としてはこう考える!」と、いつでも「素」の状態に戻って思考を組み立てられる。そういった自由度の高い中で、いかに独創的なビジョンを示せるか、みたいな性格が哲学にはあります。そんな部分も自分の性に合っていたのかもしれません。

――きっかけは中二病……! では、飯野先生にとっての哲学とはどんなものですか?

飯野先生 私は人間の営みの中心には言葉があると思っていて、言葉がなければ人間は成り立たないくらいの存在だと捉えています。哲学には日常の言葉のやりとりに立ちかえって哲学的問題を考える「日常言語学派」という流派があります。たとえば「善」とは何か、といった伝統的な問題について、まず「これ良いね」とか「It’s good」とか日常でよく使う等身大の言葉を手掛かりに考えます。そうすると、哲学的な物々しい概念の故郷はそういった会話のやりとりにあるのでは、と思えてきて、哲学的概念が一気に日常の現場に引き下ろされる。またそのように言葉で形を与えることで、生きていく中で自分の前に現れる壁や息苦しさに、何かしら見通しがついたりもする。実利的なことが重要視される昨今、哲学は役に立たないと言われてしまうけど、日常で生まれるモヤモヤを言語化して、理詰めで考えて、多少なりとも見通しをつけられるようになるというのも、哲学の「実利」の一つじゃないかと思っています。
 とはいえ、やはり哲学は学問のようでいて学問ではない、みたいなところもある。科学研究と同じような部類かと言われれば、ちょっと性格が違うような気がします。個人的には、哲学はアート的なところがある気もするんですよ。たとえば富士山のさまざまな絵は、それぞれの画家の視点で捉えたそれぞれの富士山であって、これが正しい、という正解は無い。哲学でも、それぞれの哲学者が個々の視点からさまざまな世界観を描き「私は世界をこう捉えました」というヴィジョンを示していく。そこがアートと少し似ていると思いませんか? 哲学はそういったアート的な部分と、ロジカルな部分が組み合わさっている。個人的には、そこが面白いと思います。

――私は世界をこう捉えた、なんだかかっこいい…… では、先生が考える高校までの学びと、哲学などの大学での学びの違いってどういうものだと思いますか?

飯野先生 高校までは答えのあるものを「勉強」していくけど、大学では答えのないものを「研究」していく、というのが一番の違いではないかと思います。専門的スキルを学ぶ分野はまた別かもしれませんが、大学で学ぶ多くの学問は、答えが見つかっていないもの、そもそも確定した答えなど見つからないかもしれないものを探求していく、という性格のものです。そういう問題に、自分の頭と自分の言葉で取り組んでいく。ここが高校までと大学からの学びの根本的な違いです。大学での授業もこの観点を大切にしています。たとえば誰かの説を紹介するときも「こういう考え方があって、この点では説得力があるよね」というように、あくまで考えの一つという感じで提示する。でもこれがなかなか伝わりにくくて、多くの人が「正解」として受けとっている印象もあります。もちろん、いろんな人の考えを理解することは大切だけど、むしろ私自身の考えも含め、紹介した考えに対する反論とか批判もしてほしい。だから「講義で取り上げたことからひとつ挙げて、それを批判せよ」みたいな課題を出したりもします。物事を批判的に捉える、簡単には受け入れない、というのはすごく大事。そこから独自の思考が生まれるから。学生さんたちには、それができる人になってほしいと思っています。

――なるほど、批判的な視点を持つことで独自の考え方が生まれるんですね。最後に、大学生やこれから大学生になる高校生に大事にしてほしいことはどんなものでしょうか。

飯野先生 何よりも、自分の言葉で考え、自分の言葉で語るということ。その力がまだなくても、姿勢があれば自然とついてきます。表現方法なんか、とりあえずは拙くてもかまわない。何か疑問に感じることがあったら、いくら素朴なものでも大事にして、口に出してほしいです。専門家が集まる学会などでもよくあることですが「ちょっと違うかもしれませんが」とか「基本的な確認ですが」などと前置きを付けて質問するやり方があります。それだけで、意外と場の空気が破れて、自由に発言ができたりするんですよ。授業でもゼミでも、そういう感じで何でも口にしてほしい。「学問」を扱う大学で分からないことだらけなのは当たり前。むしろその「分からなさ」をいかに追求できるかが大事です。
 進路選択の観点から、常に将来を見据えて動かなければいけないという風潮は年々強まっているように感じます。でも進路選択も職業選択も、本当のところはやってみなければ分からない、でもやるためには分からない道を進まなければいけない、哲学でいうパラドックスのようなものを孕んでいます。そんな矛盾もふまえたうえで、とりあえず興味があって、面白そうだと思ったらなんでもやってみてほしい。実用的・実利的に役立つという狭い意味だけではなくて、学んだことが面白いと感じた時点でそれはあなたの役に立っています。無駄だと思ったら追及しなくてもいい、でもそう思わなかったらとことん学んでみてください。その先に、必ず何かが見えてきます。

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飯野勝己先生
静岡県立大学国際関係学部准教授。専門は哲学、言語哲学、コミュニケーション論。大学院前期課程修了後、時事通信社、平凡社で編集者を務めた。それと並行して大学院に籍を置き、博士号を取得。日々哲学、言語行為を研究している。

今回のお話をもっと深めるおすすめ本『言語と行為──いかにして言葉でものごとを行うか』(講談社学術文庫)J.L.オースティン・著/飯野勝己・訳
本文に出てくる「日常言語哲学」の代表的著作。四〇年ぶりの日本語新訳を、飯野先生本人が手がけたものが、一月に刊行されます。緻密さと大胆さを兼ね備えた語り口で「言語行為」のありように迫る内容は、言葉やコミュニケーションに関心のある方に広く読んでもらいたい。先生も大学時代から親しみのあるこの本を、敬意を持って再翻訳された一冊。手に取ってみるべし。

鈴木聖生・文(静岡大学人文社会科学部二年)
藤田智尋・WEB文(静岡県立大学国際関係学部一年)

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