toggle
2017-04-11

大学からはじめる 新・文明開化〜静岡文化芸術大学 横山俊夫先生

戦後20年あたりまでは「エリート」と言われた大学生、大学全入時代を迎えた現在の大学生、同じ「大学生」であっても、時代が移る中で大学が置かれる環境も人も変化しています。今回は、静岡文化芸術大学 学長の横山俊夫先生と、もう一度「大学とは何か」を考えました。

【取材:原 裕太(静岡大学教育学部)/取材・文:服部由実(静岡時代)】

横山 俊夫先生

静岡文化芸術大学 学長。専門は日欧文化交渉史、文明学。同大学の構想を出した高坂正堯先生とは京都大学時代に出会う。インドネシア語で「おしゃべり」を意味する対話の会、「ビチャラ会」を共同運営。

人間とそれ以外の生き物や山川海空との対話を、静岡で大いに拡げよう

——静岡県の大学ならではの特徴とは?

静岡県の場合、赤石山脈や大井川、天竜川、遠州灘など大きな自然とともにあります。富士山や秋葉山など古代からの山岳信仰も盛んですし、三遠南信で行われる神楽などの民俗行事も豊かです。特にヨーロッパは戦争や革命で、人間とそれ以外とのそういった対話を潰してしまいましたから、「羨ましい」と語る民俗学者も多いのです。
そのような対話は自然がなければ一日と持ちません。人間が作ったビルばかりに囲まれて過ごしていると、世界は人間が作って人間が回していると思い込みがちです。人間社会がこの世界の中でどのようなポジションを占めているかを考える座標軸を心に持つことが大切です。

今は地球規模で様々な統合が始まっていますし、因果関係が非常に錯綜しています。人間と他の生き物、そして生き物以外を含むコミュニティーをこれからどう保つかという課題に真剣に向き合いますと、人間は謙虚になるとともに、これからの社会を生きる強靭な精神も鍛えることになるのではないかと思います。静岡のような場所で腰を据えて勉強するのは、とてもリッチな体験になると思います。

——他地域にもあると思い込んでいた自然の豊かさの見方が変わりますね。横山先生の学生時代の大学について教えてください。

私は京都大学の法学部の学生でしたが、当時はまだ敗戦国の雰囲気もあって、大学で学ぶ社会科学系の科目はヨーロッパやアメリカ産の理論が主流でした。

でも、大学院生の頃にインドネシアのジャワに行ったのです。その時に村人が「どのような町から来た?」って聞くんですよ。どういう国から、じゃなくてね。それで僕は、自分の生まれた町のこともよく知らないということに、はたと気付かされた。
帰国して色々な書物を読んでいく中で、江戸時代の文体と明治以降の文体が大いに異なっていて、日本でも文化大革命と呼べる大転換があったことに改めて気付きました。強く惹かれたのは賀茂真淵という浜松の国学者・歌人ですが、当時、儒学に励む知識人が多かった中で、真淵は違った。私は、日本独自の統治のあり方を論じた彼の著書『国意考』をとりあげ、彼の万葉調の歌への自己流の評釈を重ねて論文を書きました。これを機に、私は京都大学の人文科学研究所に勤めることになりましたが、その研究所は共同研究を行うことで知られていました。2012年に出した編著『ことばの力』には、人文学だけではなく、蜂やサルの研究者も加わっています。

——『ことばの力』に蜂とサルの研究家も?

そう。今、学問の世界で問題になっているのは、新たに発見した現象や物質に対して、名前を付ける時に、各学会の中だけで通じる記号で済ませてしまうことです。どの国でも専門家が互いに言語不通の世界に閉じこもりだしています。それは『旧約聖書』創世記のバベルの塔の伝説に近いと言ってもいい。人間の力を神に示そうと、塔を高くしていくほどに、最後に言語不通が起こり倒壊してしまう話です。

喧噪の現代社会では、互いに「利」ありと思う範囲に限ってのつきあいに終始しがちです。でも遺伝子研究にしても植物学と医学とで同じ遺伝子を扱っていても、異なる名前がついている。今はとても分厚い対照語彙集ができているものの、やはり狭い専門家の世界でのみ役立つもので、専門分野を超えて対話が積もることは少ない。それゆえ社会の閉塞感や不安が人々の中に増殖する。バベルの塔に近いと思います。

天地人の中でどういう位置を人間が占めるのが望ましいかを考える上で、専門家だけでは決められないことが沢山あります。むしろ永遠に考えながら対話し続けていくことが求められます。大学はそれができる場所だと思います。

横山先生の編著『ことばの力』の表紙は西陣織の舞楽の装束。西陣には千を越す色に名があり、色合せを最も大切にする。

対話のない閉塞に風を通して世の文明化を率先していくのが大学

——自分の学んでいることを踏まえた上で対話ができると発展性があります。とすると、大学とは何を学ぶ場所なのでしょう?

互いに何を考えているかをめぐって、対話がもっとあればいい。今はむしろ、「人は人、私は私」で互いに触れないようにしている。対話のない閉塞に風を通して、世の文明化を率先していくのが大学です。文明のもともとの意味は「文なして明らか」、人と天地が美しい織物のように輝き続ける状態をいうのです。一本一本、色も染め方も異なる糸を織って、全体として一つの輝きが表れるように、個人、集団、社会といった様々な構成要素を組み合わせていく。

これまで大学は入試の偏差値を基準に語られることが多かったのですが、それはある意味で人間の見方そのものの貧しさの表れです。偏差値に頼り続けたら、偏差値が高いとされた人たちがごく限られた次元の数値差だけで自分は特別と思い、周囲の多くが見下され暗くなっている。これは文明ではないのです。他者に対してシヴィリティーを示し、関わりのおよぶ全ての(次世代を含む)人間、他の生物、互いの環境を含めて輝いているかどうか。世界にはこれだけ多くの大学があります。知識とともに視野を広く持った謙虚なキャラクターを育てていきたいと思いますし、学生の皆さんには、対話を、そしてことばの力を大切にしてほしいと思います[了]

静岡文化芸術大学

〒430-0929 静岡県浜松市中区中央2−1−1
http://www.suac.ac.jp/


関連記事