「依存するのは、そんなに悪いことですか!?・2」花方寿行先生(静岡大学人文社会科学部言語文化学科教授)に訊いてみた
私たちはスマホに夢中だ。その熱中はスマホが唯一無二の絶対神かのよう。とはいえ、スマホが神になることってあるのだろうか。宗教に無頓着な私たちに教えてほしい、そもそも「信仰する」ってどういうこと?
日本人が初詣に行くのは習慣になっているからといって、強く信仰しているわけではないよね? スペイン語圏はカトリックが強く、みんな生まれた時からカトリック教徒である人が多い。だから「日曜日にミサに行く」というのは「毎日朝ごはんを食べてから学校に行く」のと同じような習慣ということ。なぜやるのかといえば、それはずっとやってきたから。
結婚式は教会で挙げたい、あるいは死んだ時にはお寺でお経くらい唱えてほしいなって思ったりしますね。日本人が宗教に関係なく行事にするのは、信仰心がないからではなく、日本の信仰は伝統的に神様が分業体制だから。日本人は、四季折々の行事や月の節目にある儀式を適切に執り行い、管理してる神様に信仰心を示している。これは地域ごとでも変わり、かまどにもトイレにもすべてに神様が存在すると考えていた。神様の分業という感覚に慣れているから、それぞれの神様に頼めば安心する。みんな大学受験の時には天神様にお祈りしてからそれっきりでしょう?(笑)そういうことです。
――すっごく身に覚えがあります……。基本的にはそれぞれの国の習慣だけど、文化の違いのバイアスがかかって少し触れにくいものに見えていたんですね。では、習慣を超えて宗教に「依存」してしまうことはあるのでしょうか?
依存は「社会的な視点」からくるものと「個人的」なものがあるね。宗教とかお酒の場合でも、社会的に見て問題がない考え方やハマり方がある。ハマるという状態がエスカレートしていくと、それが社会全体とぶつかるようになり、変な目で見られてしまう。その信仰の度合いがいいか悪いかだけではなく、社会がそれをどう見ているかが重要。実はその人たちの問題だけではなく社会の問題でもあるかもしれない。
もうひとつの依存っていうのは個人の問題。社会で認められている範囲であっても、その人がもう「これがなければダメなんだ」と思えば、もうそれは依存です。女の子がメイクやファッションに気を使うこと、しなければなにか言われてしまうが、気を遣うことで非難はされないだろう。でも心理的に、ちゃんとした格好をしていないと一切外に出られない人は、エスカレートすれば経済範囲を考えた時に無理な出費をするようになる。無理だとわかってはいるけどやめられないなら、それはもう依存と同じ。
じゃあ習慣を超えて宗教に依存してる例を挙げると、いわゆる原理主義。一番のポイントは宗派の教えを厳密に守るがために他のモノを否定し、他のあり方はないんだと思いこむこと。よくイスラム教とキリスト教の対立が話題になるけど、ISの戦闘で一番被害が出てるのはイスラム教徒なんです。多くの人は生まれたときからイスラム教徒なだけで、他の宗教を全否定して、狭義の解釈に基づいた国家を作ることに賛同しているわけではない。原理主義はそういう人も攻撃対象にしていて、同じ方角でも違う考え方を一切認めなくなる。なぜそこまでいっちゃうのかに依存が絡んでくる。
――たしかに。
例えば、ISは布教にSNSを使ってます。一度ハマって検索し続けると履歴で似たような情報が出てくるので、得られる情報は自分が関心を持ってるものに偏ってしまう。宗教に関することでもライフスタイルについてでも、純粋に関心を持つだけならやり方次第だと思うけれどね。
宗教とSNSの世界が依存の点で近いとすると、コミュニティ意識かな。考えがガチガチになるほど他の人とぶつかり、自分が否定され孤立したと感じるほど余計に自分を認めてくれる仲間に依存しやすくなる。これも宗教に人が依存していくときと似てる。
SNSは宗教と同じで、入っても良いし抜けても良い。SNSでつながった人の意見が全てではない前提でやれば問題ない。
皮肉なんだけど、多くの人がSNSにハマりやすくなってきたのは宗教が弱くなってきたからだとも言われています。宗教が良い方に働いてるときの役割は、「世の中はこういうモノで、生まれてから死ぬ中であなたはこういうところにいますよ」と安心感を与えてくれること。習慣的になんとなくそれをやっていればこの社会の一員で、困ったときに教会やお寺に行けば誰かに会えて、行こうって言えば誰かが来てくれる。身近なところに教会があった時代は何かに悩んだらそこへ行って相談する社会だった。
――なるほど。依存する・ハマることで救われることもある。それで社会が安定する面もある。一方で、価値観が狭くなったり、自分や誰かを傷つけてしまったりすることもある。距離感が難しいです……。どうすればいいのかわからなくなってきました。
研究者的に言うと、依存をしない方が良い。だけど、する人はするだけの理由があり、依存するのが悪いというわけでもない。SNSがあるから人が依存するわけでもないし、宗教があるから宗教にハマるわけでもない。一番必要なのは別に誰もいいねしてくれなくたって、あなたはあなたでいいんだよと納得することなんだけど……。それが特に現代では難しい。
本質的なことなんだけど、何かを神だと勝手に言っても他の人にとってそれが神になるとは限らない。逆に言えば日本のことわざで「鰯の頭も信心から」と言うように、その人がこれは絶対だと信じてしまえばどんなモノでも神になる。「スマホの情報が絶対だ」って言ったらその人にとってスマホは神。誰でも神的な存在になれる可能性はあるんですね。ただその場合の神は宗教における神って言うよりは「依存の対象」って感じだね。頼るという意味合いなら、人間同士でも良いしもちろん神様でも良い。ある程度信頼をおけて、その考え方を受け入れることでリラックスできるならなんだって良いんじゃないでしょうか。
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花方寿行先生
静岡大学人文社会科学部言語文化学科教授。専門はスペイン・ラテンアメリカ文学。今年三月にイスパノアメリカ諸国は自国のイメージをどう形成していったのか、文学作品の自然の描き方から追いかけた書籍『我らが大地』を出版。
今回のお話をもっと深めるおすすめ本『ブエノスアイレス事件』マヌエル・プイグ(白水Uブックス)
サディスティックなかたちでしか女性と交渉が持てない美術評論家と、マゾ的な状況の中でしか快感を得られない女流彫刻家との不毛な愛の物語。快調なストーリー展開とともに映画のショット、内的告白など多様なテキストで依存しあう二人を描いている。
ウォン・カーウァイ監督が『ブエノスアイレス』を撮るきっかけにもなった一冊。
藁科希英・文(静岡英和学院大学人間社会学部二年)
田代奈都江・写真(静岡大学人文社会科学部四年)