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2015-09-09

すべての食には意味がある!文化人類学から紐解く、食の民族性とは?

文化のはじまりは「煮る」「揚げる」だった!

今でこそ安定的に供給される食であるが、かつては隣接する集団と自分たちの集団の主食をずらしたり、食材一つひとつに意味が与えられていた。そもそも「食」は人間にとってどんなもの?文化人類学の専門家 小幡先生に聞きました。私たちが肉と火に惹かれる理由は民族性にあり!


■小幡 壮先生《写真:右》

静岡県立大学 国際関係学部 国際言語文化学科教授。
文化人類学、東南アジア文化論を専門とする。研究の過程で食文化に興味を持ち、アジアの食文化についての本も出版。毎日の晩酌は欠かせません。

■小泉夏葉《写真:左》
静岡大学 理学部3年。本企画編集長。
自身のこれまでの経験から、食は「人と人とをつなぐ力」があるのではないかと考え、本企画を立案。歴史、社会、文学など、様々な学問から論理的に食を掘りさげていく。

■田代奈都江《撮影・執筆》
静岡大学 人文社会科学部1年。本企画副編集長。
ちなみに上部写真内のおふたりですが、実際には飲んでませんので悪しからず(by田代)。


私たちは皆、狩猟民族? 食を「文化化」する

——もともと人間は飢餓に苦しまないように隣接する集団と自分たちの集団の主食をずらしたり、不可食物を叩いたり、焼いたり、蒸したりして食べられるようにしてきました。人間にとって食はどのような役割を持っていたのでしょうか?

(小幡先生)食に対する根源的な問題ですね。一番単純に言うと、人類にとって食は「エサ」です。他の動物と同様に人類もまず個体を維持するために食べなくてはいけません。

ただ「エサ」と言っても、人間と動物では食べるものに決定的な違いがあります。動物は馬だったら草、ライオンだったら肉、というように種によって食べるものが大体決まっています。これは動物には住むのに適した生息域があって、当然その環境にある植生、あるいは動物を食べるからです。

かつて人間はアフリカから世界に流出し、その先々で時に調理をしながら、自分たちが食べるものを見つけてきました。色々なものを食べる、要するに雑食です。生存欲求を満たすだけでは満足しなかったところに文化の始まりがあるわけです。

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——文化は食から生まれたのですね。「煮る」「焼く」などの行為は文化人類学的にどのような意味を持つのでしょうか?

(小幡先生)人間が自然なものに手を加えようとすることを「文化化」と言います。自然の食材を文化化していくもの、それが料理です。

実は、文化人類学的に「煮る」という行為は、その中でも最も文化化が高いものです。「焼く」という行為も文化化はされていますが、火と網があればすぐに出来ます。一方で「煮る」または「蒸す」という行為は、火や鍋などの器、そして器に入れる水がなければ出来ません。そうした手の込んだもの、つまり文化化のレベルが高ければ高いほど特別な食べ物になるのです。

(小幡先生)煮る料理や焼き料理は、おもてなし料理に使われることが多いんですよ。例えば、鍋やバーベキューがそうです。煮る料理の鍋は特に仲のいい内輪だけ(4〜5人くらいの鍋を囲める人数)で集まって食べ、焼く料理のバーベキューは大人数で食べますよね。煮る料理が閉鎖的であるのに対し、焼く料理はオープンである違いはありますが、どちらも催し物であることは同じです。

ところで皆さん、「焼く」という行為はなんだかわくわくしませんか?文化人類学では、「人間が農業を始めたのは最近である」と考えます。つまり人類の長い歴史から考えると、そのほとんどが狩猟採集で生活をしてきたわけなんですね。「焼く」という行為に惹かれるのは、昔の人類が狩猟採集をして食料を獲得し、焼いて調理をしていた遺伝子が受け継がれている証拠なんですよ。

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食の「暗黙の了解」。本来マナーは二次的なもの

——食はおもてなし料理にも使われるように、人と人をつなぐツールだと思います。一方で、食べ物の恨みで争いが起こるなど、人間関係を壊すこともあります。食の怖い面はどのようなものがあるとお考えですか?

(小幡先生)例えば木の実や山菜といった植物は比較的楽に採集できますが、イノシシはなかなか捕まえられませんよね。ですから昔はイノシシが穫れたら村のみんなで大人数で食べるというのが習わしでした。これもまたおもてなし料理です。

しかし、もしここで「イノシシが穫れたぞ。ウチだけで食べようぜ」なんてことをすれば、近所の人たちから「なんて卑怯なんだ、今度からあの人は呼ばない」と恨まれてしまいます。獲物が獲れたら皆で分け合うというのは暗黙の了解だったんです。「食べ物の恨みは恐ろしい」とよく言いますが、日常的に恨みを買うものといえばまさに食べ物で、「自分の持っていないものをあの人は持っている、羨ましい、欲しい」という気持ちが呪いの一種になるわけです。獲物を分け合うという例は、古今東西で共通だと思います。贈り物を交換し合う関係は物事も上手くいきやすいですし、人間関係も長続きするものです。

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——確かに、食が安定的に供給されていることが当たり前に思っていました。いい面も強い面も持ち合わせた食、先生自身は食についてどのようにお考えですか?

(小幡先生)人間が食事をする際に最も大事なことは、その場面にふさわしい食べ方であるかということです。食事作法は日本や東南アジア、ヨーロッパ……どこの地域でもそんなにうるさくはないのです。結婚式などフォーマルな場で食べる場合は別ですけどね。マナーとは本来二次的なものなのです。

贈り物を交換し合う。人と人の間だけではない

——確かに。食が安定的に供給されていることが当たり前に思っていました。いい面も怖い面も持ち合わせた食、先生自身は食についてどのようにお考えですか?

(小幡先生)私は30〜40年前からフィリピンのミンドロ島のタジャワンという焼畑農耕民を研究しています。タジャワンは人口規模1500〜2000人の少数民族です。彼らは焼き払う森をどこにするか決めるときや、種を蒔くとき、収穫するときなど、事あるごとに儀礼を行います。

文化人類学はその民族の文化的特徴を調査することが目的ですから、彼らが自分たちの生きる世界をどのように考えているか知るために、私は儀礼に注目しました。彼らとの日常では様々な場面で儀礼が行われますが、儀礼を行うときにはいつも食べ物を神様にお供えしているということに注目したんです。

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——お供え物ですか?

(小幡先生)日本でも彼岸に食べ物をお供えしたり、正月に神棚にお餅をお供えしたりしますよね?それと同じで、目に見えない神様にお祈りするときは必ず目に見える食べ物をお供えします。そしてそのお供え物はやはり彼らにとっての特別な食べ物なんですね。私自身、こうした民族性としての食に興味を持ち始めたわけなのです。

——確かにお供え物は調理された物です。そこに民族の特徴が現れるんですね。

(小幡先生)日本では主食とされる米が、西洋ではメインディッシュの付け合わせのような形で食べられるなど、文化・民族によって生じる好みの味も指向性も異なります。仏教に「小欲知足(しょうよくちそく)」という言葉があります。つまり、欲を小さくして、今あるもので十分だという生活を心がけなさいという教えです。

まさに日本人はこの言葉を肝に銘じなければいけないと思いますね。現代の日本人は贅沢に慣れて、日常と非日常の区別ができなくなっていると思います。普段食べるものと特別な時に食べるものを区別して、メリハリのある生活を心がけることによって、食とは何か、本当に美味しい味とは何かを知ることができるのではないでしょうか(了)

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