強さを求めて非日常へ足を伸ばす〜龍津寺座禅会
どうしたら強くなれるのだろう。俗世の悩みを抱える学生3人がお寺の住職さんを尋ね、人生初の座禅を体験。普段は隠している自分の弱い部分に真っ向から向かい合い、見つめなおします。「○○で弱い自分はもう嫌だ!」 と思っているあなたへ。
[文:加藤佑里子(静岡大学人文社会科学部3年)/写真:峰松美祈(静岡大学農学部1年)]
▶︎龍津寺
毎月第一日曜日の座禅会や子ども寺子屋、ヨガなど様々な催しが開かれている。いずれも申し込み不要で、誰でも参加できる。当日、少し早めに到着できれば大丈夫。土曜日開催の子ども寺子屋では、大学生ボランティアを随時募集中だ。詳細は龍津寺のフェイスブックを参照。
▶︎勝野秀敏さん
龍津寺の住職、兼禅僧。興津駅、静岡駅、お寺の駐車場などあらゆる場所で声をかけられる存在。自分の限界を自覚した今、無敵状態だそう。「たくさんの学生さんがお寺へ足を運んでくれたら嬉しい」と話していた。
仏教は答えがひとつじゃない。ずるいでしょ?
「私の周りには頼れる人が誰もいない。学校を出たらますます一人になって、強くないと生きていけない」
突然ですが、強さとは何だと思いますか。人前で泣かないこと? 立派な成果を残すこと? 誰にも頼らないこと? 訪れたのは静岡市清水区にある龍津寺。興津駅から車で約九分、日常的に座禅会や寺子屋などが開かれ、その門戸は広く開かれている。今日は座禅会に潜入し、住職の勝野秀敏さんと強さについて考えてみた。
日曜日の朝五時半、私たちは興津駅に到着した。早朝にも関わらず電車には多くの人が乗車しており、駅にはこれから出かけることを楽しそうに話す二人の男性がいた。迎えに来てくださった勝野さんと挨拶を交わしていると、先ほどの二人が勝野さんに声をかけ親しげに話している。そして車に乗って到着した龍津寺でも先に到着していた参加者の方と、とても気軽にお話されていた。初対面だったが、その人柄がうかがえた。
案内されて上がった堂内は想像していたより広く、大きな窓(または引き戸)を開けるとまるで弓道場のような開放感と、どこか厳かな緊張感があった。到着した人から御本尊に挨拶を、と教えられ御本尊の前まで行くも、肝心の挨拶の作法がわからずあたふた。普段お寺を参拝するときのようにすればいいと考え、手を合わせて終えた。他の参加者の方をこっそり観察するも正解はわからなかった。
六時になり座禅会が始まった。私たちも含め参加者は十二人。子供からお年寄りまで幅広い年齢層だ。前半の三十分は梅湯を飲んだり、お経を唱えたり、ストレッチをしたり。後半の座禅に向けて心と体を落ち着かせる時間だ。梅湯というものを初めて飲んだが、湯のみに入っている梅のかけらは食べるべきか否か悩んだ末、残した。後で尋ねたところ挨拶も梅湯の飲み方もどちらでもいいと言われ、ほっとした。
座禅中、秋の虫の声と隣人の息遣いを微かに感じるだけの暗闇で、勝野さんの「言い忘れましたが、目は開けてください」という声が聞こえた。慌てて目を開ける編集部三人。おそらく私たちに向けた言葉だったんだと、後で三人とも目を瞑っていたことがわかり少し恥ずかしくなった。座禅のとき目線は一メートル先に落とす。そういえば弓道をやっているときも、腰を下ろしたら二メートルくらい先を見ていた。空間といい、雰囲気といい、似ているなあ。横目でちらりと編集長を盗み見る。慣れない姿勢のため、ときどき組んでいる足が崩れていたが、最初の緊張はだいぶ解けてリラックスしているようだった。もちろん警策もいただいた。警策というのは、住職が修行者の肩または背中を打つための棒のことである。打たれた時の音が大げさなだけで、痛みはたいしてないだろうと高を括っていたが、実際ちょっと痛かった。それでも印象に残ったのは、痛みより振動だ。物理的にも、精神的にも揺れた。
座禅を終え、しばし参加者の方々との団欒を楽しんだ後、勝野さんと「強さ」について考える時間となった。いくつかの題材をもとに話をしていたが、その中でも個人の「強さ」に焦点を当てて展開された話を紹介する。似たようなことで悩むどこかのあなたに言葉が届きますように。
題材となった話は「いろんなことに振り回される自分が嫌。どうしたらぶれない強さをもてるか」というもの。これに対し、そういった悩み事を「強い」「弱い」という言葉に当てはめることに違和感がある、と勝野さんは話し始めた。
「まず『強い』の反対はなんだろう。本当に『弱い』なのだろうか。心のような数値で測れない問題の場合、強弱の尺度はどこにある? そして、振り回されなくなったあなたは果たして強くなったと言えるのか。これらについて考えてみよう。ただ僕は答えをもっていない。答えが出せるとしたら問題をもっている当事者だけだ」。
答えをもっていないという前置きの後に続いたお話は、間に私たちからの話も加えながら数時間にもわたるものとなった。残念ながらすべてを書き出すことはできないため、要所要所をおさえることとする。以下の三つ。
一つ、自分を仕分けする。社会から要求される「強い=良いこと」「弱い=悪いこと」の図から形成された理想の自分と、本当に自分がなりたい姿を線引きしなきゃいけない。例えば社会で生きてくためにぶれない、強い人になりたいと言っていたけど、それは自分の求める姿だろうか。もし会社に合わなくてやめたとして、やめた自分は「弱い」のか。
一つ、数値化できない「強さ」は相対的なものではなく、絶対的なもの。誰かに自分のことを話して、これは強い? 弱い? と聞けはしない。自分の「強さ」とは、家族や友人といった代えのきかない、かけがえのないものと同じだ。自分はそれをどう感じるかで尺度を作る。そして強さと弱さは相反するものではない。
一つ、この言葉を贈りたい。自分のことに対しては「これでいいのだ」、相手のことに対しては「いいからいいから」と捉える。まずは自分を許し、大切にする。そうすれば相手も許せるし、大切にできる。
予定より取材時間が長引いたのには理由がある。取材に行った編集部員たちの人生相談のようなものが始まったからだ。「私、言葉へたなんですよねえ」といいながら真剣に聞いて、考えてくれる。長引かない方が無理な話である。
▶︎龍津寺
毎月第一日曜日の座禅会や子ども寺子屋、ヨガなど様々な催しが開かれている。いずれも申し込み不要で、誰でも参加できる。当日、少し早めに到着できれば大丈夫。土曜日開催の子ども寺子屋では、大学生ボランティアを随時募集中だ。詳細は龍津寺のフェイスブックを参照。