神様を論破する、神総論。正直、神って本当にいるの?

誰もが神をもっていて、誰もが誰かの神である

安全を保障してくれるわけでも、存在が本当かどうかも分からない神。それでも神は私たち人間にとって必要なの? 言語哲学を専門とする飯野先生に聞いた、「神」の起源。そこから見えたのは、私たちのいるこの世界とわたしの、「存在そのもの」の不思議だった。

(静岡時代vol39:静かな岡の神探しより)


自然に発生したには緻密で不自然なこの世界

ーー「神」という概念はどのように成立したのでしょうか?

(飯野先生)「神」という概念が生まれたのは、「この世界はなぜあるのか」「なぜ世界はこのような構造になっているのか」「なぜ私はここに存在しているのか」というような根拠や原因、不思議な感覚、畏敬の念が根本にあると思います。

よく考えてみると、この世界は人間を含めた生物など、自然に発生したものにしては、ものすごく精密にできていますよね? 物理法則なども非常にシンプルな数式で表せます。数学のような抽象的なものと、現実の法則がなぜこんなにもぴったりと一致する構造になっているのか。普通の感覚では理解し難いわけです。そうすると、聖書に書かれているような「神」という自然から超越した存在を考えないと説明がつかない気がしてきます。

旧約聖書の『創世記』には、神が世界を言葉によって創造した様子が書かれています。「光あれ」と言ったら光が生まれ、「水の間に大空があって、水と水とをわけよ」と言ったら空と海が分かれる。また新約聖書の『ヨハネによる福音書』には、言語を強調するような書き方がされています。「はじめに言ことば(ロゴス)があった。言は神とともにあった。言は神であった。その言ははじめに神とともにあった」と。「ロゴス」は言葉であると同時に論理です。つまり、「神=言葉=論理」です。論理によって、この世界はなぜかちょうどうまい具合に、比較的安定した形で成立しています。聖書をかいた人が科学的なマインドを持っていたわけではないと思いますが、結構言い当てている気がして面白いなと思います。

ーー論理によって創造された世界は、例えば地震など、すべてが人間にとって良いものばかりではないですよね。なぜ「少し不具合の起こるような世界」がわざわざ造られたのか不思議です。

(飯野先生)神様がいるのなら、悪や災いの存在はなぜあるのかということですよね。
諸説ありますが、神は人間を「自由な行為をする存在」として創った、自由を与えられた人間は善いこともすれば悪いこともする、それは神様の責任ではない、という考え方が一つあります。あるいは、人間という不完全な存在が身勝手な視点でみるから災いなのであって、偉大な神の視点からみると災いではない、という考え方とか。これらはどちらかというと、神を全知全能であり、完璧な善なる存在とみるキリスト教的な考え方です。一方、我々日本人に身近な多神教では、普通に悪さをする神がいますよね。どちらの世界も災いがさまざまに起こるということです。

それでも人間が神を求める理由は大きく二つあると思います。一つは、「この世界はなぜあるのか」という自然の起源を考えるから。原因の原因を遡っていくと、無限に遡ることになってしまうから、哲学ではそうではなく第一原因、「不動の動者」といった何物にも動かされずに他のものを動かす存在が語られることがあります。一神教的世界観の「神」に通じる考え方です。

一方、世界で起こる様々な出来事や自然現象に魂や霊的な存在を感じて、自然現象を人間に対するメッセージと捉えていく、そういう感性は多神教的です。そうしたアニミズムの範囲は狭まっていますが、今も在り方としては同じだと思います。人間は自分とは異なるものに自分と同じような心を認め、コミュニケーションを行っています。そう考えると、神とは「他者」なんじゃないかな。例えば、我々は誰も見ていないところでも悪いことはしにくいですよね。自分のなかに神の目というか、一般化した他者の視点を持っていて、善かれ悪しかれ自分を律している部分があると思います。だからコミュニケーションや社会が成り立っているわけで、言葉を可能にする人間の根本的な能力や、倫理・道徳の面で、人間は神という存在を潜在的にもっているのだと思います。

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「神=言葉=倫理」。人の世の中を決定づける原理を求める

ーー確かに神とのコミュニケーションは聖書や祈り、預言者など対話のみです。でも、本当に言葉だけで、神の存在を信じられるのでしょうか?

(飯野先生)キリスト教の神学では、神の存在を理論的に論証しようという営みが強いです。また、聖書ではモーセの十戒のように神の声は堂々と描かれています。ですが、日本のような多神教では、あまり言質をとることはありません。その違いは論理や言葉を使って、ロジカルな捉え方をする文化であるか否かが影響していると考えられます。

そもそも抽象的な概念や現象は、言葉を与えられて初めて輪郭がくっきり見えるようになります。本当は昔からあるんだけれども気づいていなかったんじゃなくて、言葉が与えられていないのはある意味、存在しないことなんですよ。

同時に、言葉は単なる音や記号ではなくて、物理的な力に匹敵するし、人を動かすこともできます。例えば、なにか約束をしたら、自分も相手も拘束することになりますよね。言葉が交わされる前は何もない平衡状態だけれども、言葉を他者に投げかけることによってバランスの変化が生じます。言葉のコミュニケーションというのは、いわば貸し借りの関係の様なものです。

それがよく表れているのが、キリスト教における神と人間との間に結ばれる契約です。「父と母を敬え」「人を殺してはならない」とかね。与えられた言葉に対して、応えなくてはならない。そこに力も生じるし、それに反するといろいろよからぬことが起こる。

 

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現代は科学や国家、メディア、教育が神の肩代わりをしている。

 

ーー言葉が宗教で果たした役割は大きかったんですね。言葉により「神」という概念を誰もが認識しやすくなりますが、その言葉の力や人の意識は時と共に薄れてしまう部分もありますか?

(飯野先生)潜在的に神を必要とする心は構造としてあると思います。今は存在の根拠や不思議の対象としての神と、信仰の対象としての神が分裂している状態にあります。では、前者の神の肩代わりをしているものは何か。それは日常的な常識や科学、メディア、教育、国家といったものでしょう。かつての宗教はデパートのようなもので、いまの科学やメディア、教育の持つ機能、礼儀作法や道徳、倫理などをすべて包み込んで、人間の共同生活、社会生活を支える大きな役割を果たしてきました。社会の構築や生活習慣は、昔は神話や宗教の教義によりつくられていたんだけれども、それがどんどん分業化していったわけですね。

神の肩代わりとして機能しているものの例としては、「経済的な繁栄を追究しなくてはいけない」というような絶対的な価値、善です。何かしら世の中を支える原理を、社会にしろ、政治にしろ、国家にしろ必要としています。現代の社会には、神ならざる神が姿や形を変えて、ある種の信仰のように存在している。場合によっては人々を圧迫するような構造もありますが、そういう神や信仰のようなものを設定しないと社会が落ち着かないという部分もあるんじゃないかな。もちろん無条件の信仰のような構造になると、それがよからぬことにもつながるので、批判的にみることも大事です。

根本的な謎から出てこざるをえないような神もあれば、社会の価値観の原理原則のなかに信仰の構造のようなものとして働いている神もいれば、日常のなかに名残としてある霊的な意味での神もある。いつの時代も、神と呼ぶかは別として、我々の生活のなかに関わっているし、残り続けていくだろうと思います。(取材・文/亀山春佳)

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飯野 勝己先生
静岡県立大学 国際関係学部 准教授。
専門は哲学、言語哲学。最近は言葉のコミュニケーションにおける力のあり方や、言葉の暴力性について研究。大学教員になる前は、平凡社に勤め、平凡社新書編集長等を歴任。

山口 奈那子
常葉大学 外国語学部4年(※取材当時)。「神様は本当にいるのか」という問いから本企画を立案。静岡県に点在する神的なものをたよりに、私たちが大切にしなければいけない歴史・文化・場所を探っていく。

亀山 春佳
英和学院大学3年(※取材当時)。本記事取材・執筆者。

2016年04月01日 | Posted in 知の地図をつくろう | タグ: No Comments » 

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